宮崎における浄土真宗の歴史

宮崎への真宗伝来

宮崎県で最初の浄土真宗寺院の創建は、寺伝によれば1471(文明3)年と伝えられています。それは丁度蓮如上人(本願寺8代宗主)が吉崎御坊を建立された年であります。

1506(永正3)年には、実如上人(本願寺9代宗主)が、薩摩国千野湊(現在の宮崎県串間市)の僧明心に方便法身尊形のご本尊を下付されています。
蓮如上人示寂7年を経た頃であり、本願寺にとっては大変困難な時期でもありました。
この頃すでに宮崎県に浄土真宗が伝幡し、本願寺と連絡があったことを物語っています。

1582(天正10)年信長が死するや、本願寺と秀吉の関係は強くなり、顕如上人(本願寺11代宗主)に対する秀吉の篤信は殊のほかであったと言われています。
1587(天正15)年の九州出兵、島津義久の降伏、1591(天正19)年の朝鮮出兵を機として、浄土真宗は九州一円、特に南九州(薩摩を除く)に布教され、寺院建立も相次ぎました。
しかし、薩摩はこの頃から「念仏禁止」藩となっていきました。

念仏禁制-かくれ念仏ー

島津義久の後を継いだ義弘は、再度朝鮮出兵に際して、浄土真宗を禁止する通達を出しました。
『一向宗の事、先祖以来御禁制の儀に候条、彼宗体に成候者は曲事たるべき事』
この念仏禁制以来、薩摩・大隅・日向諸県(現在の宮崎県都城・小林地方)では、浄土真宗寺院は建てられず、かくれ門徒の摘発と拷問が約300年間続きました。

弾圧下の門徒たちは他宗や神道の信者を装ったり、藩外に逃亡しましたが、多くはその地にとどまり、聴聞の場を土蔵や洞穴(ガマ)に求めました。
これが「かくれ念仏」です。

しかし、過酷な弾圧も遂にやむときが来ました。廃藩置県後の1876(明治9)年8月、日向諸県地方が鹿児島に先んじて念仏解禁となりました。
西郷隆盛の決定により、同年9月鹿児島の全域にも念仏解禁の布告が出されました。
早速本願寺派は布教を開始し、諸寺院が建築され、新寺も建立され、説教所が寺院となり今日にいたっています。

宮崎教区とは

浄土真宗本願寺派は京都にある西本願寺を本山とし、全国にたくさんの寺院があります。
それを行政でいう都道府県に区分けたものを「教区(きょうく)」または「特別区」といいます。(全国で31教区・1特別区)
宮崎教区は宮崎県全域になりますが、区域が何県にもわたっている教区もあります。

また、各教区の名称は地域の歴史の中で呼ばれてきた名称などが使われているため、必ずしも行政区域の名称と同じにはなっていません。

宮崎教区教務所とは

宮崎教区教務所は本願寺宮崎別院の中にあります。宮崎教区にある80ヶ寺以上ある寺院と浄土真宗本願寺派との様々な連絡の窓口業務を行っています。
また、浄土真宗の教えに基づく様々な行事を、門信徒の方や各お寺、僧侶とともに企画し開催しています。

詳しくは宮崎教区活動紹介を参照ください。

本願寺宮崎別院とは

本願寺宮崎別院は西本願寺の直属の寺院です。
別院は地方における伝道教化の中心道場として、浄土真宗の教えをひろめ、法要儀式を行い、僧侶・寺族・門徒その他の者を教化育成し、公共の福祉に貢献することを目的としています。
宮崎別院では、10月と1月に本堂にて法要を勤修しています。

また、本堂での法事や上記教区活動での会場としての役割も担っています。

年表

昭和23年2月 教区分離に関する宗則第53号発布
昭和24年4月 熊本教区・鹿児島教区より宮崎教区として独立、教務所(事務所)を都城組攝護寺に置く。
ただし、鹿児島別院を従来通り両教区の崇敬別院とする。
昭和29年6月 教区会において、宮崎市内へ教務所移転を急ぐことが決議される。
昭和29年8月 教務所を宮崎組真栄寺に移転。
昭和36年11月 宮崎市江平町に土地を購入し、教務所を移転。初めて独立の教務所となる。
昭和44年 宮崎別院建立計画が立ち上がる。
昭和48年 宮崎別院建設審議が開かれる。
昭和48年11月 宮崎江平の土地と宮崎市柳丸(現在地)の土地を吉村薬局と交換。
昭和49年10月 本願寺へ別院建立の許可願いを提出する。
昭和49年11月 宮崎別院建立の同意を求める案が宗会にて出される。
教務所新築移転。
昭和49年12月 本願寺より宮崎別院設立が承認される。
昭和50年3月 宮崎別院設立登記。
昭和50年5月 勝如上人ご親修のもと、別院落成慶讃法要が勤修される。
平成2年 門信徒会館工事が開始される。
平成3年6月 門信徒会館完成。
平成3年10月 勝如上人ご親修のもと、会館落成慶讃法要が勤修される。