宮崎県にあるかくれ念仏の史跡

釋無涯の墓

第20代広如上人の命により、3名の青年僧侶が薩摩藩に秘密布教に入りました。そのひとりが無涯の名を授けられた、尼子了随です。
無涯は3年以上も藩内各地の講をまわっていましたが、その所在を藩に知られ、追跡から逃れるために国富の宗久寺に潜伏しましたが発見され、取り囲まれた際、本願寺や藩内の信者への難を避けるために安政4年5月に自決しました。
墓は宗久寺にありましたが、現在は都城市山田町にある正定寺に移されています。

石抱きの拷問石

浄土真宗の門徒であることが発覚すると捕らえられ、見せしめのために様々な拷問が行われました。今も拷問のあった場所が山之口町に残っています。
また、家の淵石や井戸の蓋など、あり合わせの石で行われた石抱きという拷問で使われていた拷問石が都城市山之口町にある安楽寺に現存しています。

かくれ念仏洞本尊

安楽寺本堂余間に展示されている本尊や絵像は、近隣の門徒(薩州内場仏飯講)が実際に使用していた法物です。

田島かくれ念仏洞

都城市山之口町にある原形を留めているかくれ念仏洞です。
現在では周囲は切り開かれ住宅も隣接していますが、さまざまな木に覆われた密林であったといわれています。
安楽寺によって建立された碑文には「念仏はいのちなり 念仏はまことなり 血吹き 涙あふるる 暗き世に 我が無碍光は されど その力にては 消えざりき」と刻まれています。

蓼池のかくれ念仏洞

都城市の隣、三股町蓼池にある念仏洞です。元々はこの付近一帯竹林で人目につきにくい地形でしたが、道路の拡張などにより、現在の姿となっています。また洞穴は、度重なる台風や車の振動等によって現在は崩れ埋まっています。かつて洞穴内は、複雑な構造をしていて役人達の監視から逃れたと言われています。

田辺のかくれ念仏洞

都城市高城町にある念仏洞です。大正10年頃山崩れによって姿がみられなくなっていましたが、昭和45年4月に近隣の人々によって発掘されました。
内部は広い空間となっていますが、入口は灯りが洩れないように人ひとりがやっと通れるほどの狭さになっています。

轟かくれ念仏洞跡

都城市高崎町にあったかくれ念仏洞跡です。大淀川沿いの切り立った崖の下にありましたが、ダム建設により現在はダムの底に沈んでいます。
崖の上には記念碑が建立されていますが、私有地に囲まれており、許可無く立ち入ることはできません。

平田かくれ念仏洞

都城市庄内町にあった念仏洞です。灯が洩れないように入口は狭く、中は広くつくられていました。
しかしながら、平成2年にあった台風により洞穴天井部が陥没してしまい、現在は入口部分のみ残っています。

永久井野のかくれ念仏洞

小林市にある念仏洞です。自然の洞窟を利用した念仏洞で、奥深い山中にあり、長い川岸の先に位置します。川の流れによりにおいなどの痕跡が残りにくく、道無き道を、足跡を消しながら洞穴にたどり着き、お念仏することが生きる喜びとされていました。
元々は現在よりも更に狭い入口でしたが、平成2年に広く整備されました。