かくれ念仏について

かくれ念仏の歴史

現在日本では、誰もが自由な信仰を認められていますが、旧薩摩藩では300年もの長い間、自由に信仰が出来ない時代があり、宮崎県では都城と西諸県周辺が旧薩摩藩の統治下にありました。

かくれ念仏とは

念仏禁制が始まったのは、人吉藩が1555(弘治元)年、薩摩藩は1597(慶長2)年、島津義弘によって禁止が始まったとされています。
これによって、自由に念仏申すことのできない人たちが、講(こう)という集まりをつくり、ひそかに山の中や洞穴などで念仏の信仰を守ったことを「かくれ念仏」といいます。

拷問、そして極刑

その取り締まりは徹底して行われ、藩は春と秋に「宗門改め」(民衆の信仰する宗教を調査する制度)を行い、お寺からは「寺請証文」、村からは「宗門人別帳」、五人組からは「証文」を提出させ、念仏の教えを信仰していることが分かると捕らえられ、割った木の上に正座をさせられ、300キロ程の石をのせられ、棒でたたかれる拷問にかけられました。また、改宗の意思がないものは斬首、磔、火あぶりなどの極刑に処されました。

念仏禁止の理由

なぜそこまで念仏を禁止する必要があったのか。
理由は「阿弥陀如来の前には、すべての生きとし生きるいのちは等しく尊い」という浄土真宗の教えが、人吉藩・薩摩藩の支配にそぐわなかったこと。また、一向宗の信者の結束による行動が、一向一揆に発展するなどの危険があった。門徒により本願寺へ大金が納められており、困窮していた薩摩藩が、藩外に大金が流れ、藩の財政を圧迫することを恐れたなど諸説ありますが、いずれにしても藩の体制を守るための弾圧であったようです。

法灯をつなぐ

そのような厳しい禁制の中であっても、それをくぐり抜け、夜な夜な山の中や洞穴などに集まり、阿弥陀さまを御安置し、お勤めをし、仏法を聞き、お念仏申していたのです。
悲しみと絶望の中、法灯をつないでくださった方々から、改めて「お念仏申すことが大切である」という意思を受け継ぎたいものであります。

宮崎県にあるかくれ念仏の史跡

宮崎県では、都城と西諸県周辺が旧薩摩藩の統治下のもと、厳しい禁制にあいました。その中、信者達は監視の目を避けて洞穴(かくれ念仏洞)や奥深い山の中、船の上などに集まり法座を開き、また熊本藩・飫肥藩・高鍋藩といった隣接する藩のお寺に聴聞に赴くなどして信仰を守っていったのです。
そのため、都城や西諸県周辺にはかくれ念仏の史跡が数多く存在します。